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合気道広島会 広島北道場ブログ

広島市安佐南区スポーツセンター武道場にて毎週 (月)(木)稽古しています。

昇段審査会


 この度 北平道場長より昇段審査に加わる様にと要請があり、先日12/4に初回の
審査会に参加した。
 事前に、審査を受ける会員各々の様子に付加した進言をする様な道場も見られた。
しかし、当日の技を見ての判断、稽古の様子などの申請書による判断 それにより
公平な見方をしなければ ならないと改めて感じた。

  推薦昇段の制度もある。
この場合は、少なくとも道場主が審査長に、しっかりとした推薦理由を述べ昇段を
受ける本人も審査日には、顔を出して共にお願いすべきではなかろうか?
 稽古日数や度量すべて整っていたとしても、道場主も本人も姿を見せず書類を
出して置けば、なんとかなる。  ……なんともなるまい。
               
               いくらなんでも虫が良すぎる。

 最近 他人に、注文の言葉ばかりのブログになっているが、自省の言葉でもある。

           日野

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合気道 力の入れ方


 全身を自然体で、特に上半身は脱力に等しい位にして気力だけは充実させる。
何か 示している事にまとまりが無い様であるが、ついて来て欲しい。
構えにおいては 手刀により手のひらは、開ききらず指先を通じて気力を出す。
これにより 一ヶ所にとどまらず螺旋運動でその動きは自然な円運動になる。

 亡くなられるまで、毎年広島に講習に来て下さった藤田先生の「言葉」

  「氣は入れるのではなく、出すんだ」

       空手などとは異質で「“ぐう” ではなく “ぱー”」であると……。

    合気道の稽古を始めた頃は、手を開いての動作がなかなか出来ない。

  「一年稽古をすれば一年 十年稽古をすれば十年の気力を発揮できる。」


       日野
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植芝盛平と武田惣角の出会い

記載 岡)
今日は合気道の開祖 植芝盛平の話です。
植芝盛平翁が古流柔術、槍術、剣術などに基づいて大正末期から昭和の初めにかけて完成させたのが合気道で、武道としては比較的新しいものになります。
植芝盛平は明治16年(1883年)中規模農家の家に生まれました。当時は近代化への転換期です。
明治維新の変革や苦難に耐えながら、伝統を維持しようとする昔ながらの武術家が多数いた時代でもあります。
ちなみにこの前年、明治15年は柔道の父と言われた嘉納治五郎氏が東京大学を卒業し、講道館を創立、柔道完成への第一歩を踏み出した年であります。
開祖は生まれながらに小さく、弱そうな男の児だったそうです。
植芝家初めての男の子という事もあって両親には非常に大事に育てられ、14~15歳頃まで小柄で痩身だったそうです。
身長は約156センチ。当時でも小さい方だったようです。
日本武術との出会いは、開祖17歳で上京し、そこで起倒流 戸張滝三郎の道場へ入門しました。
そして合気道創始において最も影響を受けたと言われる「大東流柔術」の武田惣角との出会いは、1912年北海道開拓民時代の事です。
武田惣角と言えば武術マニアであれば皆さんご存知のってぐらい有名ですね。
背も低く150センチぐらいだったそうですが、大男をいとも簡単に手玉に取る達人、名人です。
2人は偶然同じ旅館に泊まりあわせ、その際に武田惣角が盛平を一目見て「見どころのある男だ、私の武術を習っては・・」 とすすめました。
大東流柔術の良さに傾倒した盛平は、早速入門し弟子となって教えを受けました。そして4年後の1916年には大東流柔術の免許を武田惣角より受けました。
(参考資料 合気道教範 植芝吉祥丸 著)
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古い技名から思う

記載 岡)
  今日は二代目道主吉祥丸先生の話。
吉祥丸先生は合気道の普及に努めたかたです。
その一環として 合気道初の一般公開演武会を開催や、
各地方での審査を可能にしたり、
海外への指導員の派遣など、
当時としては革新的な試みを行たようです。

また、技法の整理と命名を行い、
開祖監修のもと初の一般向け技術書も出版されました。
現在でも合気道の本で現道主が示している技の形や名前がそれにあたります。

以前何かで読んだのですが、
技の名前を決める際にも試行錯誤があったようで、
現在 一、ニ、三、四、五教と呼んでいる技は、
以前は
・腕押さえ(一教)、
・小手回し(二教)、
・小手ひねり(三教)、
・手首押さえ(四教)
・腕伸ばし (五教)
と一時期呼ばれていたようです。
何故名前が数字に変わったのかはわかりません。
古いネーミングを見るとそれぞれの技の特長が少しわかるような気がします。

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本日 「防災の日」


 この度の東北地方や北海道の大変な被害状況報道を見ると積極的に身を守る
行動が いかに大切か……“想定外”では済まされない。
 
   山から石が転がって来たら

      空手では   叩き割る
      柔道では   取っ手 投げる

    しかし合気道では  “よける”

 いかにも 頼りなさそうであるが、逃げることが一番の防災であり

                       一番の「護身の技である」

     日野
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燕雀、鴻鵠の志を解さず


 どんなに素晴らしい先生に巡り合えても しっかりとした吸収能力がなければ
自分の “力” にはなり得ない。
少なくとも自分よりは遥か高みの世界にあることに間違いはないのだから……。

 自分が好んだ訳でもなく、たまたま行った道場主を師としたという人が一般的だ
と思われるが、実は “大宇宙の氣” から見ると むしろ必然なのである。

     会うべくして会った 誰の所為でもない 自分の天運である。
 
 拘束されていたり洗脳されている人は別であるが 所詮 人間は、好きな様に
生きているのであって自分の師は、自分が求めて巡り合った師である。  

 合気道を習いたいと考えている人に、空手の破壊力をいくら説明しても全く
関心を示さない事と同様で、何事も他人に左右されるものではない。

 「親は、大空から 何時も自分を見届けていてくれる」 愛に気づきたい。

          日野





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  未知との遭遇 / 合気道

合気道に会えて彼此40年近くになる。早いもので すでに人生の半分以上
拘わってきた。

 運命の遭遇 それは合気道なる未知のもの、目の当たりにした北平道場長の
力強い演武であった。こんな素晴らしい武道があるのかと感動した。
 時を置かずして 県支部の行事が幾つかあり、それに参加するようになって
いつの間にか……の入会であった。

 旧体育館に通い始めた当初 多くの諸先輩たちに交じり稽古し、指導もして
もらったが 技の左右裏表も理解し難く、初心者同志での稽古が多かった
所為もあり かなりの間、進歩のある事にはならなかった。

  “道場長は上手いなァ……”模範を示されたのを見ても理解出来ない日々。
しかし 分らぬなりにでも 道場長の一挙手一投足を脳裏に焼付ける可く
身じろぎもせず食い入るように魅入ったものだ。

「あの様に上手くなりたい」羨望の眼差しで見る毎日であった為 合気道の
稽古をやめようなどとは、爪の先程も思ったことはなかった。

 誰しも 共通の感性を持った指導者に出会えるチャンスはそうそう
あるものではなく、運命や巡り合せによる。
現在 私も、一指導者として修行の身であるが“憧れとなれる範”を示すことが
出来なければ、後に続く人は不幸であるし、継続したい気持ちも芽生えては
来ない。

 指導者たるもの 次世代に正しく引き継いでもらう為には、正統の技や考えを
持つことが大切なことである。

        日野
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  今年もイタリアより

今夏で 三度目の “お目見え” イタリア在住の和田さん。
子供の夏休みの間、毎年帰郷しその間 南道場に顔を見せて
くれている。

今年も二ヶ月間のうちには、イタリア話を昨年よりは多く聞きたい
と思っている。

       日野
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1973/01/02
担当:岡篤史
2008年3月合気道入門
2019年12月参段取得
ひとみ幼稚園 長束道場 所属
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