忍者ブログ

合気道広島会 広島北道場ブログ

広島市安佐南区スポーツセンター武道場にて毎週 (月)(木)稽古しています。

許せる?


 あれだけ暑かった夏も終わり朝晩は温度が下がり散歩の季節。今年も先日より
夕方に掛けて小一時間程の“徘徊老人”となっている。  途中、住宅の一角に

   「ごめんなさい」
       言える勇気と
           許せる心   の標語板が眼に付いた。

最近は、思いも寄らぬ事件が多く この先、生きる世界が変わって行く様な気さえする。

 作為を持って他人の体や心を傷つければ、過ちで茶碗を壊した場合と訳が違う。
それには「ごめんなさい」は通用しない。

許せる事と断じて許せない事とがある。自分には出来そうもないが、この標語のように
多くの人は、自分の心を偽ってでも “許したふり” をするのだろうか

     日野

合気道 力の入れ方


 全身を自然体で、特に上半身は脱力に等しい位にして気力だけは充実させる。
何か 示している事にまとまりが無い様であるが、ついて来て欲しい。
構えにおいては 手刀により手のひらは、開ききらず指先を通じて気力を出す。
これにより 一ヶ所にとどまらず螺旋運動でその動きは自然な円運動になる。

 亡くなられるまで、毎年広島に講習に来て下さった藤田先生の「言葉」

  「氣は入れるのではなく、出すんだ」

       空手などとは異質で「“ぐう” ではなく “ぱー”」であると……。

    合気道の稽古を始めた頃は、手を開いての動作がなかなか出来ない。

  「一年稽古をすれば一年 十年稽古をすれば十年の気力を発揮できる。」


       日野

大局的な観点から



 子供の頃から俯瞰する感覚をよく頭に描いていた気がする。 人は死の間際にも
これを感じるらしい。 あの世を言えば 行きかけて戻った人は居るようだが
行った人が未だ帰ってきたと言う話を聞いたことがない。それは、あの世ほど素晴
らしい処は無いからだろう。

  当時の我が家の南側には1/50,000の地図にやっと名前が載る程度の山がある。

 中学生になった頃、父と共に一日がかりで木をわけ草をわけやっとの思いで その
頂上を目指した。そこには、宮島の山頂に幾つもある様な大きな石が一個だけ鎮座。
石の上に父と よじ登り我が家を見た当時の思い出もWっているのかも知れない。

 俯瞰とは、上空より地上全体を見下ろす鳥の視点であるが、この先の人生にはその
俯瞰に加え「大局的な観点に立つこと」が重要である。 これには、ただ見下ろす
だけではなく、これからの未来予測の判断の意も含んでいる。

   “木を見て森を見ず”になっては意味が無い。

      日野



毎文広島合気道 道場開講


 この9月までの前任講師と交代し、引き継いだ形である。
チラシや毎日新聞の “週刊毎文ニュース” でも受講生の募集をして頂いた
のではあるが、思うに任せず 少人数船出の初日であった。

 私共々 補助者の思いも 早く合気道の楽しさが解る様協力を惜しまない
覚悟なので一人でも多くの参加を願っている。

    特に 合気会会員の協力には、大いに期待しているのだが……。

       日野

この先49年 稽古


 何事も早目々々に行わないと気がすまない性質で、早 年賀状に取り掛かろうと
思っている。 その時期になると知人のご不幸を知る事となり みにつまされる。


「天寿を全うする」と言う言葉があるが、これは118歳で天に召される意の賀寿である。

天の字を 一・一・八に分解出来るからだと言う。これに到るまでにはまだ49年ある。

100歳や其処いらの若者の昇天ではとても「天寿全う」には当てはまらず程遠い。

  この先も 充分稽古できそうである。


       日野


毎日新聞文化センター合気道広島道場


 いよいよ来月 “10月4日(火)” より中区国泰寺町の毎日文化センター武道場で
合気道広島道場を始動する事となった。

 合気会会員の新田健次さんと新田守さん二人の協力を得ての船出である。
受講生は、合気道未経験者が殆どの様なので、身が引き締まる。
毎日文化センターで広く受講生を募っており、一人でも多くの参加者を願っている。

     日野

呼吸力のはなし

記載 岡)
合気道の説明によく出てくるのが「呼吸力」と言う言葉。
技の名前にも「呼吸」と言う言葉がよく用いられ、◯◯呼吸法(呼吸投げ)などと言われます。
呼吸法は呼吸力を技の中で上手く発揮できるように鍛錬する方法の事で、呼吸力を技の中でどう生かすか、呼吸力を出すためのポイントなどが習得できます。
では「呼吸力」とは何なのか?
呼吸力についての説明からいくつか言葉を抜き出します。
・手刀、足、腰などの動きが一つになって発揮される力
・人体の重心、臍下丹田より出す、気力、心力、体力すべて統一集中した無限の力
・合気道には力を出すと言う言葉はあっても、力を入れると言う言葉はない。
・力を肩、肘、首などにこもらせてはいけない。
・身体各部の集約された呼吸力が出ていくうえで最も大きな動きをしているのは腕であり手であり、手刀状に作用されたその動きである。

なかなか意味を理解するのは難しそうですが、知識として知っていれば上達の早道になると思います。


(参考資料:「合気道上達book・・植芝守央著」、「合気道、合気道独習教本・・ 植芝吉祥丸著」)

植芝盛平と武田惣角の出会い

記載 岡)
今日は合気道の開祖 植芝盛平の話です。
植芝盛平翁が古流柔術、槍術、剣術などに基づいて大正末期から昭和の初めにかけて完成させたのが合気道で、武道としては比較的新しいものになります。
植芝盛平は明治16年(1883年)中規模農家の家に生まれました。当時は近代化への転換期です。
明治維新の変革や苦難に耐えながら、伝統を維持しようとする昔ながらの武術家が多数いた時代でもあります。
ちなみにこの前年、明治15年は柔道の父と言われた嘉納治五郎氏が東京大学を卒業し、講道館を創立、柔道完成への第一歩を踏み出した年であります。
開祖は生まれながらに小さく、弱そうな男の児だったそうです。
植芝家初めての男の子という事もあって両親には非常に大事に育てられ、14~15歳頃まで小柄で痩身だったそうです。
身長は約156センチ。当時でも小さい方だったようです。
日本武術との出会いは、開祖17歳で上京し、そこで起倒流 戸張滝三郎の道場へ入門しました。
そして合気道創始において最も影響を受けたと言われる「大東流柔術」の武田惣角との出会いは、1912年北海道開拓民時代の事です。
武田惣角と言えば武術マニアであれば皆さんご存知のってぐらい有名ですね。
背も低く150センチぐらいだったそうですが、大男をいとも簡単に手玉に取る達人、名人です。
2人は偶然同じ旅館に泊まりあわせ、その際に武田惣角が盛平を一目見て「見どころのある男だ、私の武術を習っては・・」 とすすめました。
大東流柔術の良さに傾倒した盛平は、早速入門し弟子となって教えを受けました。そして4年後の1916年には大東流柔術の免許を武田惣角より受けました。
(参考資料 合気道教範 植芝吉祥丸 著)

ブログ内検索

記事投稿について

道場生のみなさんへ

ID,パスワードをご存知の方は、下のリンクの「新しい記事を書く」か「管理画面」よりログインし記事掲載下さい。
ご存じない方や方法がわからない方は、ブログ上部の「問合せメール」から氏名、記事内容を書いて送信下されば後日管理者が掲載します。

内容は日記レベルで十分です。気軽に投稿ください。

最新のコメント

[2016/06/22 わだ]
[2015/11/27 E・Y]
[2015/11/24 和田]
[2015/09/05 和田]
[2015/06/29 わだ]
[2015/06/16 岡篤史]
[2015/04/21 和田]

アーカイブ

広島ブログリンク

広島ブログ

ブログ管理担当

OKA
年齢:
52
誕生日:
1973/01/02
担当:岡
2008年3月合気道入門
2019年12月参段取得
ひとみ幼稚園 長束道場 所属
広島北道場で出稽古
My Blog

忍者広告

PR